【ビートルズはキリストより有名?】ジョンレノンの人生と伝説/日本音楽能力検定協会

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日本音楽能力検定協会です。
ジョン・レノン(John Lennon)は、20世紀の音楽界・文化界において極めて重要な人物です。以下に彼の生年からキャリア、代表曲、使用楽器、さらには歴史的背景まで詳しく紹介します。
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基本情報

本名:ジョン・ウィンストン・レノン(John Winston Lennon)
生年月日:1940年10月9日
出生地:イギリス・リヴァプール
没年月日:1980年12月8日(ニューヨークにて暗殺)
享年:40歳

歴史とキャリアの流れ

1.幼少期と音楽の出会い
•ジョンは5歳の頃に両親が離婚し、伯母ミミに育てられました。
•10代でエルヴィス・プレスリーに影響を受け、音楽にのめり込みます。

2.ビートルズ結成前
•1957年、16歳の時に「クオリーメン(The Quarrymen)」を結成。ここにポール・マッカートニーが加入し、後にジョージ・ハリスンも加わりました。

3.ビートルズ時代(1960〜1970)
• バンドは最終的に「The Beatles」となり、1962年にデビュー。ジョンはリーダー的存在として多くの名曲を作曲。
• レノン=マッカートニー名義で数々のヒットを生み、音楽・文化に革命を起こしました。

ビートルズ解散:1970年に公式に解散。創作上の意見の相違や人間関係の悪化、ヨーコ・オノとの活動などが背景に。

4.ソロ活動(1970〜1980)
•ビートルズ解散後は、妻ヨーコ・オノと共に平和活動を推進。
•「プラスティック・オノ・バンド」などのユニットを組みながら、ソロでも活動。
•一時音楽活動から離れ、息子ショーンの子育てに専念した後、1980年に復帰。

5.暗殺
•1980年12月8日、ニューヨークの自宅前でマーク・チャップマンにより射殺。世界中に衝撃が走りました。

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代表曲(ビートルズ時代&ソロ時代)

ビートルズ時代の代表曲

•「Help!」
•「A Hard Day’s Night」
•「All You Need Is Love」
•「Strawberry Fields Forever」
•「Come Together」
•「I Am the Walrus」
•「In My Life」
•「Revolution」

ソロ代表曲

•「Imagine」(平和を願う世界的名曲)
•「Give Peace a Chance」
•「Instant Karma!」
•「Working Class Hero」
•「Mother」
•「(Just Like) Starting Over」

使用楽器

ギター

リッケンバッカー 325
→ ビートルズ初期での愛用ギター。短いスケールと独特の音色が特徴。
ギブソン J-160E
→ エレクトリック・アコースティックギターで「Love Me Do」などで使用。
エピフォン・カジノ
→ 中期以降のレコーディングやライブで頻繁に使用。軽量で扱いやすい。
ギブソン・レスポール・ジュニア
→ ビートルズ晩年〜ソロ時代にも。

ピアノ

スタインウェイ・アップライトピアノ
→ 「Imagine」を作曲・演奏した名機。現在も記念品として展示されることも。

その他

•ハーモニカ(初期ビートルズ時代に多用)
•メロトロン(「Strawberry Fields Forever」など)

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ジョン・レノンの思想・伝説

平和運動家としての側面:「ベッド・イン」「Give Peace a Chance」など、反戦・反核・非暴力を訴えた。
ヨーコ・オノとの関係:世界中で賛否が分かれるが、ジョンは彼女を「自分の半身」と表現。
アートと音楽の融合:視覚芸術・パフォーマンスアートなど、多彩な表現を追求。
伝説的な死:1980年の暗殺事件は世界中を悲しみに包み、ジョンの存在は「反戦と愛の象徴」として永遠のものとなった。

受賞・栄誉(死後も含む)

•ロックの殿堂(ビートルズとして1988年、ソロとして1994年)
•グラミー賞(生前・死後にわたり受賞多数)
•「Rolling Stone」誌の「史上最も偉大なアーティスト」ランキング常連

ジョン・レノンの伝説エピソード集

「キリスト発言」騒動(1966年)

「ビートルズは今やイエスより有名だ」
この発言は、アメリカ南部の保守層を中心に大きな反発を受け、ビートルズのレコードは焚書(たきしょ)=焼却され、ツアーも混乱。
•真意は「宗教よりも大衆文化が強い影響力を持ち始めている」という社会批評。
•ジョンは記者会見で謝罪のような説明をしたが、伝説的な騒動となった。

「ストロベリー・フィールズ」は実在した

「Strawberry Fields Forever」は幻想的な歌だが、実はリヴァプールに実在する孤児院「ストロベリー・フィールド」がモデル。
•子供の頃、ジョンはこの施設の庭でよく遊んでいた。
•楽曲にはノスタルジアや夢と現実の境界がにじむ。

「ベッド・イン」で世界平和を訴える(1969年)

ジョンとヨーコはハネムーン中、ホテルのベッドにこもって世界中の報道陣に対して「平和」を訴える抗議活動を展開。
•オランダ・アムステルダムとカナダ・モントリオールで実施。
•モントリオールの「ベッド・イン」中に「Give Peace a Chance」を録音。
•まるでパフォーマンス・アートと政治運動の融合。

FBIとCIAに監視されていた

1970年代、ジョンはベトナム戦争への批判や左派運動家との交流を行っていたため、アメリカ政府から危険視されていた。
•ニクソン政権は彼のビザ更新を拒否しようとした。
•後に、FBIが彼に関する数百ページに及ぶ監視資料を保管していたことが明らかに。
•文字通り「音楽で国家を揺るがした男」。

「イマジン」は宗教・国家・資本の否定?

「Imagine」の歌詞は一見美しいが、実はかなり**ラディカル(急進的)**な内容。
•宗教・国家・財産を否定し、「全ての人がひとつになること」を願う。
•ジョン自身、「この曲はほとんど共産主義宣言のようなもの」と語った。
•世界の平和運動の賛美歌のように愛されつつも、論争の的にもなった。

ヨーコ・オノとの奇妙で深い関係

日本人前衛芸術家ヨーコ・オノとの出会いと結婚は、音楽界に大きな波紋を呼んだ。
•ヨーコと出会ってから、ジョンの音楽・思想は大きく変化。
•一部ファンからは「ヨーコがビートルズを壊した」と非難されることも。
•しかしジョンは、「ヨーコは僕の人生そのもの」と断言。
•2人の関係は現代においても「究極の愛の形」とも、芸術的迷走とも議論され続けている。

主夫時代(1975〜1980)

息子ショーンの誕生を機に、音楽活動を休止。徹底的に主夫生活を選んだ。
•パンケーキを焼き、子育てに専念する「お父さんジョン」。
•5年間音楽活動から完全に離れたことは当時驚きをもって受け取られた。
•しかし、その間にインスピレーションを蓄え、1980年に音楽界に復帰。

悲劇の死とその衝撃(1980年)

1980年12月8日、ファンを名乗るマーク・チャップマンに銃撃され、死亡。

• 同日昼、チャップマンにサインをしてあげた数時間後、同じ男に殺されるという悲劇的で象徴的な構図。
• 世界中で追悼の声があがり、「ジョン・レノン=平和の象徴」として神話化されていく。
• セントラルパークには「ストロベリー・フィールズ・メモリアル」が建てられ、今も多くの人々が訪れる。

レノンの名言(伝説的言葉)


•「Life is what happens to you while you’re busy making other plans.」
 (人生とは、君が他の計画を立てている時に起こる出来事のことさ)
•「You may say I’m a dreamer, but I’m not the only one.」
 (僕は夢想家かもしれない。でも僕だけじゃない)
•「War is over! If you want it.」
 (戦争は終わる。あなたがそれを望めば)

ジョン・レノンは何を遺したのか?

•音楽的革新者:ロックの形式を変えた。
•思想家・活動家:音楽を通じて平和と自由を訴えた。
•芸術家:純粋に「表現すること」を貫いた。
•殉教者:40歳で非業の死を遂げたことで、その存在は神格化された。

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オノ・ヨーコとの出会いと活動

ジョン・レノンとオノ・ヨーコの出会いとその後の共同活動は、20世紀の音楽・芸術・社会運動に大きな影響を与えました。彼らの関係は単なる恋愛を超え、音楽・アート・平和運動の“共犯者”とも言える深い絆で結ばれていました。

アートが2人を結びつけた(1966年)

出会いの日:1966年11月9日
場所:ロンドン、インディカ・ギャラリー(オノ・ヨーコの個展)
•ジョンは当時、前衛アートに興味を持ち始めており、友人に誘われて個展を訪問。
•ヨーコのインスタレーション作品《Ceiling Painting(YES Painting)》で、「はしごを上って天井を見ると”YES”と書かれている」…というポジティブでユニークな発想にジョンが感銘を受けた。
ジョンのコメント:「もし『NO』と書かれていたら帰ってたね」

恋愛関係と結婚(1968〜1969)

•当時ジョンは妻シンシアと結婚していたが、ヨーコとの関係を深め、1968年に破局。
•1969年3月20日、ジブラルタルで結婚(ビートルズの「The Ballad of John and Yoko」でこの出来事が描かれている)。

音楽活動

「プラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)」
•ジョンとヨーコが中心の前衛ロックプロジェクト。クラプトン、リンゴ・スターらも参加。
•精神的な叫び・実験的ノイズなど、商業主義とは真逆の表現。
•ジョンの「Mother」や「Working Class Hero」など、心の内面に迫る曲もここから生まれた。

平和運動

「ベッド・イン」(1969)
•結婚直後、アムステルダムとモントリオールのホテルで「ベッドにこもって抗議する」パフォーマンス。
•ジャーナリストに対して、戦争への非暴力的抵抗をアピール。
•この活動中に「Give Peace a Chance」が録音された。

レノン:「僕らは裸で愛を叫ぶ。戦争を終わらせるには、人々に考えさせることだ」

アート活動

•ヨーコは前衛芸術家として活動しており、ジョンと出会う前から国際的に評価されていた。
•2人は「概念芸術(コンセプチュアル・アート)」をともに追求。
•アートイベント、詩の朗読、前衛映画などを多数共作。
•例:「WAR IS OVER!(IF YOU WANT IT)」ポスターを世界中に貼り出し、平和のメッセージを広げた。

ビートルズ解散との関係

•ヨーコの存在は「ビートルズ解散の原因」とメディアから非難された。
•実際には音楽的方向性やビジネス上の問題が主因であり、ヨーコはスケープゴートにされた側面も大きい。
•ジョンは「ヨーコがいなければ、僕はとっくに自滅していた」と語った。

主夫時代(1975〜1980)

•息子ショーンの誕生を機に、ジョンは音楽活動を休止。
•その間、ヨーコがビジネスや音楽のプロデュースを担当。
•ジョンは「ヨーコが僕のマネージャーであり、母であり、神だった」とまで述べた。

ジョンの死とヨーコの人生

•1980年、ジョンが暗殺された後、ヨーコは精神的にも芸術的にも深く傷つきつつ、活動を継続。
•「イマジン・ピース・タワー」など、ジョンの意志を継ぐプロジェクトを展開。
•息子ショーンとの絆を深めながら、前衛芸術家として現在も活動中。

2人の関係は何だったのか?

•「恋人」「夫婦」「同志」「革命家」「パートナー」――
•ジョンにとってヨーコは単なる妻ではなく、**人生を変えた“芸術と思想の師”**でもあった。
•一部から「彼女がすべてを壊した」と言われながらも、2人の関係は今なおロック史上最も深く美しく、そして論争的な愛として語り継がれている。

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